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拝啓 「エンターテインメント」に関心がある作家・評論家 様 |
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拝啓 皆様の中に「エンターテインメント」という用語について、かなり混乱があるようなので、ぼくの見解をしたためることにしました。『子どもと本の明日 魅力ある児童文学を探る』(日本児童文学者協会編 新日本出版社 本体定価2200円)に収められている文章のさわりを、お読みいただければ幸いです。
エンターテインメント児童文学の創作方法 川北亮司
児童文学の創作方法というと、「リアリズム」や「ファンタジー」という言葉を思い浮かべる人が多いはずです。しかし、そうした切り口に、ここではあえて目をつむろうと思います。なぜなら、エンターテインメントの創作方法を明らかにする場合、歴史的にもジャンル的にも、目を広く遠くに向けなければならないからです。
1 芸術的児童文学と大衆的児童文学 日本の児童文学には、芸術的児童文学と大衆的児童文学と呼ばれてきた二つの潮流があります。芸術的児童文学は、大正期の『赤い鳥』に代表される作品群が始まりとされ、一方、大衆的児童文学は、大正から昭和初期にかけての『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)に掲載された少年小説群が始まりとされています。 この二つの潮流については、これまでさまざまな角度から論じられてきていますが、なんといっても注目されるのは、佐藤忠男の「少年の理想主義について」(「思想の科学」昭和34年3月号)です。この論文が発表された年は、奇しくも、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年サンデー』(小学館)が創刊された年でもありました。 佐藤は「少年倶楽部」に掲載された少年小説を分析しながら、つぎのような結論を導き出しています。 「少年読物にとって重要なことは、その読物の中に登場する少年の境遇、性格、役割、使命、といったものに要約できる少年の現実性である。それは、その少年が現実に存在しうるかという問題ではなく、その内面のどこで、登場する少年と読者である少年とが同一化しうるか、ということである」 子ども読者の存在を明確にしつつ、読者と登場人物の関係にまで言及した佐藤の評論は、画期的なものでした。しかし、当時の児童文学界に波紋を投げかけたものの、古田足日以外は大衆的児童文学の「低俗な娯楽性」や「反動的な教化性」を問題にし、否定的な論調が圧倒的でした。 1955(昭和30)年に、ア・エス・マカレンコの『児童文学と児童読物』(新評論社)を、山中恒らと共に翻訳していた古田は、佐藤の評論について「児童文学時評」(『近代文学』1959年7月号)の中でこう書いています。 「佐藤の示す子どもの姿は、日本の子どもの姿である。児童文学の変質が、この日本の子どものエネルギーの上にとげられなければならないという点で、ぼくは佐藤を支持したい」 芸術、非芸術という分類にこだわりながらも、子ども読者を視野にいれていた古田は、その後、新しい創作方法を模索しながら実験的な作品を発表していきます。『児童文学と児童読物』を共訳した山中恒も、古田とは政治的対立から袂を分かちますが、「児童読物作家」として独自に作品を発表していきます。 しかし、古田や山中のように、大衆的児童文学を意識しつつ作品を書きつづけた作家は、残念ながらごく少数でした。そして、佐藤が提起した問題も、児童文学の創作方法として深化されずに時がたってしまいます。そして数年後、漫画雑誌が子どもや青年たちの間で、広範囲に読まれるようになっていた時期に、上笙一郎が大衆的児童文学研究の必要性を論じる文章を発表します。上は「二つの児童文学について---芸術的児童文学と大衆的児童文学」(『児童文学への招待』所収 昭和40年 南北社)の中で、こう書いています。 「日本の芸術的児童文学は、日本近代文学が私小説に求めたところを児童文学に求めたものであって、その点で、私小説の一種の変種といってもまちがいでないのである」「芸術的児童文学が、このような思想と性格の文学として定着してしまったとき、これに満足できぬ子どもたちは、自分たちの欲求をほかのところへ求めるよりほかになかった。そうして、そこに登場してきたのが、おもしろいということを第一の旗としてかかげた、いわゆる大衆的児童文学だったのである」 そして上は、「不幸にも分裂してしまった」二つの潮流の統一を訴え、大衆的児童文学の研究が「狭い童心主義の迷路から脱出するための」唯一の道だと結んでいます。しかし、上は具体的な創作方法にまで言及できず、この貴重な問題提起も、いつの間にか歴史の中に埋もれてしまいます。 ところで、戦後の児童文学史の中で、何度か問題にされてきた大衆的児童文学が、いまだに具体的な創作方法論として展開されていないのには、それなりの理由があります。 ひとつは、大衆的児童文学が内包していた「低俗な娯楽性」や「反動的な教化性」(=メッセージ性)が、芸術的、教育的であるべき児童文学とは相容れないものと捉えられてきたからです。またさらに、1950年代後半から、児童文学作品が商業出版されるようになり、文学のひとつのジャンルとして社会的に認知されていったことも、分離に拍車をかけました。お互いに子ども読者を共通項にしながら、大衆的児童文学の娯楽性、教化性(=メッセージ性)を漫画のものとし、芸術性、文学性、教育性を児童文学のものとする傾向が強くなったからです。 こうした経緯をたどった二つの潮流ですが、では、どうしたら、上が言うように二つの潮流を統一できるのでしょうか? いや、もしかしたら、統一というより大衆的児童文学から漫画に引き継がれた「娯楽性」「教化性」(=メッセージ性)を、どうしたら児童文学に取り戻せるか、なのかもしれません。もちろん、「低俗」ではなく「反動的」でもない「娯楽性」「教化性」(=メッセージ性)をです。 じつはこのことが、現在の、厳密には80年代以降の日本の児童文学にとって、最も重要かつ緊急の課題だと、ぼくは密かに思っているのです。 さて、大衆的児童文学が商業主義と密接に関わっていることを考慮にいれながら、大衆的児童文学、そしてエンターテインメント児童文学の創作方法に踏み込みたいと思います。
残念ながら、ここで掲載できる文章はここまでです。この続きは、ぜひ『子どもと本の明日 魅力ある児童文学を探る』(日本児童文学者協会編 新日本出版社 本体定価2200円)をお読み下さい。あ、そうそう。うっかり忘れるところでした。この本は、ぼくの手許に数冊残部があります。ご希望の方がいらっしゃいましたら、メールでご連絡下さい。 ではでは、きょうのところは、このへんで失礼いたします。 敬具 |
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拝啓 せがわ きり 様 |
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『夏のむこうへ』(せがわ きり・著 岡本 順・画 学習研究社 2000年8月4日初版 定価本体1200円)を読みました。 「日本児童文学」の2001年5〜6月号の新人登場のコーナーに、せがわさんが載っていて、なんと趣味が将棋だというので、読んでみようと思ったんです。将棋大好き人間の単純すぎるほど単純な動機です。それに、作品の舞台が新宿歌舞伎町というのも、ちょいと惹かれた理由のひとつです。実はボクも歌舞伎町で、20才のころから、かれこれ30年間育ってきた人間なんです。主に夜ですけどね。 で、『夏のむこうへ』ですけど、正統派の児童文学といえる力作で、とても好感がもてましたよ。将棋でいうと、堂々の“相矢倉”です。P42やP85あたりは、ちょっと“手拍子で指してしまった”感があって、陽子の心情が読者に届きにくくなってますけど、新人なんですから、このぐらいたいした欠点じゃありません。それと、陽子の親の職業が不明のまま転居を繰り返しているという設定に無理がある、という意見もありましたけど、気にしない気にしない。 ここで、評論家のみなさんに一言。新人作品の構造上の欠点を言うのは簡単なんです。だけど、陽子の息づかいに近い小気味のいい文章や、陽子の月也くんへの恋心を軸に、新宿歌舞伎町で生きている子どもたち大人たちが、爽やかに描けていることを、過小評価しないでほしいんです。子ども読者なんか眼中にない完成度の高い「児童文学」なんてのより、この『夏のむこうへ』の方がはるかに優れている作品ですよ。 せがわさんは、いま子育中と聞きましたけど、子どもたちのビビッドな息づかいが聞こえる作品を、ぜひぜひ書き続けて下さいね。それから、将棋の上達も期待していますよ。では、お会いできる日を楽しみに。 敬具 |
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拝啓 大塚英志(まんが原作者、ジュニアノベルズ作家) 様 |
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『物語の体操』(大塚英志・著 朝日新聞社 2000年12月1日初版 定価本体1400円)を読みました。 〈みるみる小説が書ける6つのレッスン〉というサブタイトルに、すけべ心をくすぐられてでしたが、途中で「あれ?」と思ったことがあるんです。大塚さんに、どこかでお会いしたようなしないような、既視感とでもいいましょうか……。で、本棚をほじくりかえしたら、ありましたありました。『少女民俗学』。10年ほど前に興味深く読んだ本です。 大塚さんとは「隣近所」の仕事人ですので、『物語の体操』のレッスン内容には、さほど新鮮さを感じませんでした。ボクも似たようなことをやってますから。でも、80年代以降のサブカルチャーを足場にして、「文学」のありようを追求していく、明快かつ気をつかいながら(?)の論理展開には感心しました。まあ、ボクとは、ちょいと視点が異なる面もありますけどね。 ボクは、大塚さんのように文学論を論じる力がないから、「作品書いて飯食ってて、なにが問題なの?」なんて、口には出さず斜に構えて居直ってますよ。 それにしても、サブカルチャーを足場にしての文学論、率直に面白かったです。ではでは。 敬具 |
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拝啓 最上一平(児童文学作家) 様 |
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『ぬくい山のきつね』(最上一平・作 宮本忠夫・絵 新日本出版社 2000年11月25日初版 定価本体1500円税別)読みました。 読後しばらくぼんやりしてから、「うまいなあ」と、思わずつぶやきました。山村に暮らす老人たちの生活心情が、時にしみじみと時にユーモラスに描かれていて、なかなかの味わいです。 でも、どうして主人公が老人たちなんだろう。最上さんが、子どもより山村の老人に、関心があるということなんでしょうか? それとも全く別の理由で、80年代以降「児童文学」の読者層が広がり、子どもに限定されなくなっていますから、将来を見越して、こうした作品を書いたんでしょうか? 読者層は老人のほうが子どもの層より厚いし……。え? もしかして「老人文学」のさきがけ?! ……だとすると、すごい!! ボクは底の浅い単純な人間なので、「児童文学」は「児童の文学」と理解して、子どもの側から世界を見つつ、子ども読者に向かって作品を書いていこうと思っています。しばらくはね。……ではでは。 敬具 (PS)一カ所誤植らしいところを発見。P69の最後の行、「かあさんにばり」は「かあさんにばかり」?
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《POST2》2001年5月2日
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拝啓 西山利佳(児童文学評論家) 様 |
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シリーズ第3弾『マリア探偵社 死界からのメッセージ』(川北亮司・作 大井知美・画 理論社 フォア文庫)に、楽しい解説「ミステリーの解説に関する怪説」を書いてくれて、ありがとう! さすが西山利佳さん。のびのびとした斬新な解説で、うん、久しぶりにニコニコさせてもらいました。読者の子どもたちも、まちがいなく楽しんでくれると思いますよ。本が書店にならぶのは2001年6月中旬。この本には、西山さんの楽しい解説の他に、もうひとつ楽しい仕掛けを付けたので、読者の反応が待ち遠しいーっ!! ではでは、いずれまた。 敬具 |
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拝啓 藤田のぼる(児童文学評論家) 様 |
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『児童文学への3つの質問』(藤田のぼる・著 Mてらいんく 2001年4月27日初版 定価・本体1143┼税)を読みました。 現在の児童図書出版状況などは、もっと突っ込んだ言及がほしかったです。ボクが、このあたりを調べていたせいもありますが、出版文化のありようを問い直すくらいの視野の広さがあればと思いました。その浅さのせいかどうかはわかりませんが、現在発行されている児童書はフィクションの比率が多すぎるとかいうくだりは、「あれれ?」でした。だって、フィクションの冊数や比率のことじゃなくて、どんな質や内容のフィクションが多すぎるかという問題なんでしょ? 児童文学評論家としてはというより、P118的にいえば……。 藤田さんは自らを反省しつつ、これまでの作品批評のあり方に疑問を投げかけ、子ども読者を意識に入れた作品評価をと発言している点は、本当にその通りでボクも大賛成です。ただ、文学作品を「物語(的)」「小説(的)」な二つの側面から分析してますけど、ボクにはとても不十分に思えます。この二側面をあれこれいってみても、具体的な創作の方法論は導き出せないからです。この本では結局、二つの「バランス」という、極めて抽象的ないい方しかできていませんよね。まあ、この辺のことは、ボクが機会を見つけて書きますよ。 P80以降で、作品に込められている「情報(性)」の大切さを強調してますが、登場人物の感情まで「情報(性)」というのは疑問です。キーワードに流された感がありますが、どうでしょうか? “もっともっと中級向けの作品を”という主張と、P112で「高いグレードでいい作品を書いている書き手に、ぜひ中級向けの作品をたくさん書いてほしい」そうですが、この辺りは作家の子ども観、読者観、児童文学観などと密接に関係していることなので、そう簡単にはいかないでしょうね。 気づいた点は、まだまだありますが、きょうのところは、これくらいにしておきます。 そうそう、最後に二カ所の再チェックを。P18の後ろから5L目「ばっかし」は「ばっかり」では? P54の後ろから3L目「ありまが、」は「ありますが、」では? ではでは、また。 敬具 |
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